hの話(その7:英語の"th"(後編))
前回からの続きです。
"th"の歴史(中英語)
中英語から、再び"th"の綴りが復権します。
前回と同じ、田中(1970)を引用します。
(中英語(ME)のアルファベット)のうち、ȝ('yogh')とþ('thorn')はそれぞれyとthに置きかえられて姿を消しつつあった。
OEのæ、ð、þはMEにおいて徐々に消えていった。æはea、a、あるいはeによって代わられ、ðに対してはþが代用され、そしてƿはu、uu、そして最後には大陸から来たwによって代わられた。
(中略)
そのほか(引用者註:当時のフランス語の慣習的綴り字であり、中英語にも取り入れられた)ch、sh(この場合、hは単なる区分音符的価値しかもたない)の綴り字にならって英語独特の二重字ghが作られた。
この慣用は、þとðに代わるthの使用の拡張を助け、またOE hw-に代わるwh-を一般化した。
(pp114-115、改行は引用者任意)
中英語の時代は、ノルマン・コンクエストが起こり、イギリスにフランスの文化が大量に持ち込まれます。
これは綴字法も例外ではなく、フランス語風の綴りが導入されるようになります。
このとき、[ð]及び[θ]の音をどのように綴るかが再度問題になります。
フランス語にはこれらの音はありませんから、適切な文字はありません。
そして(これは私の想像ですが)土着の文字であるルーン文字から輸入した"þ"の文字が、
洗練されてなくて、田舎っぽくて、言ってしまえばダサい文字に見えたのかもしれません。
また一方で、当時のフランス語には"ch"や"sh"の二重字が使用されており、
これが対照的に洗練されていて、新鮮で、つまりはナウい書き方に見えたのでしょう。
その上、"þ"は、当時の字体の"y"と見た目が似ているという欠点もありました。
結果として、"þ"は急速にすたれ、代わりに"th"の綴りが再度使用されるようになったのです。
なお、先ほど"þ"と字形が似ていると紹介した"y"ですが、"þ"が滅んだ後も、まるで"þ"の生まれ変わりかのような振る舞いを演じることになりました。
"y"の上や右肩に小さく"e"を書くことで"the"と、"t"を乗せて"that"と読ませる用法が生まれ、これは欽定訳聖書をはじめとする公式文書でも見られることがありました。
流石に近年の公式文書では使用されませんが、今でも店先の看板などでは古風な演出のために、"the"と書くべきところを"ye"と書いているものもあるそうです*1。
文字が民族に与える影響
余談ですが、
その言語にしかない文字というのは、上記の例のようにその言葉を母語とする民族にとってコンプレックスになることがあります。
日本ではひらがなが、朝鮮ではハングルが、長い間「女文字」と称され、公で使われるまでに長い年月が必要でした。
これは、当時東アジアで最大の文明国であった中国の文字が漢字であったからであり、
漢字以外の文字は文明化されていない、ダサい文字に見えたのでしょう。
ところが、逆に、その民族にとってアイデンティティになることもあるのですから、わからないものです。
例えば、20世紀末のデンマークの件があります*2。
詳細は割愛しますが、ドイツとデンマークが両国の国境地帯を共同開発するにあたり、その地域の名称についてデンマーク側でひと悶着あり、
結果的に、両国で使われる名称の中に、ドイツ語では使われず、デンマーク語で使われる"ø"の文字を入れることで、
デンマークの国及び民族としてのアイデンティティを示したということがありました。
この地域は歴史上、ドイツにたびたび侵攻されており、また、言語的にドイツ語が優勢である
(つまり、両国民が会話するときはドイツ語が使われることが多い)ため、
何としても「ここはデンマークでありドイツではない」ということを国内外に示したかったわけです。
このような効果を政治的に利用した例が、東欧や中近東をはじめ世界のいたるところで見られます。
つまり、ロシアやソ連とのつながりを示すために、敢えて今まで使っていた文字を捨ててロシア語と同じ文字(キリル文字)を使ったり*3、
逆に、ロシアやソ連とのつながりを断ち切るために、敢えてラテン文字やその他独自の文字を使ったり*4という例などです。
同じようなことは、アラビア文字*5やデーヴァナーガリー(インド文字)*6でもありますし、朝鮮語やベトナム語もその一例でしょう*7。
日本国内でも、方言を恥ずかしいと思うシーンがある一方で、
地方のアイデンティティを示すために、敢えて方言で表現することがありますが、
それの国際版と言ったところでしょうか。