「好きくない」という表現に対する考察―主体性放棄による他責的表現―

若者の崩れた日本語のひとつとして、「好きくない」という言葉が使用されています。
この言葉は「好きではない」「好きじゃない」と同じ意味として用いられていると考えられており、
日本語文法的に正しくない表現であると見做されています。

本記事では、この「好きくない」という表現について、文法的な考察とともに、
この表現の持つニュアンスや、その理由について考察します。

※ご存知の通り、著者は語学のプロではないので、内容の有効性等についてはご了承ください。

「好きくない」の文法的解説


▲いつの世も「好き」かどうかは
人間にとって重要なのです。

「好きくない」という表現は、日本語文法の観点からは誤った表現です。
伝統的な日本語には、動詞「好く」と形容動詞「好きな」の2つの言葉があります。
(本記事では、日本語文法において形容動詞の存在を認める立場をとりますが、
これを、名詞「好き」に助動詞「だ」の連体形「な」をつなげた形とみる立場をとっても差し支えありません。)
動詞「好く」と形容動詞「好きな」のそれぞれについての否定表現は、

  • 「好く」→動詞の未然形に「ない」→「好かない」
  • 「好きな」→形容動詞の語幹に「ではない」→「好きではない」(これを崩すと「好きじゃない」)

となります。しかし、現代日本語では、「好く」「好かない」は限定的な場面でしか用いられず、
実質、形容動詞の「好きな」しか用いられないと考えるのが妥当でしょう。
いずれにしても、「好きくない」という表現は、伝統的な日本語ではありえないものです。

「好きくない」という表現は、「好きい」という形容詞が存在していると考えると、文法的に納得がいきます。
「大きい」などの「―きい」で終わる形容詞の否定表現が「大きくない」となるように、
「好きい」という形容詞が存在すると仮定すると、その否定表現は「好きくない」となります。
したがって、「好きくない」という表現は、「好きな」という形容動詞を形容詞的に否定した表現と考えられ、
もちろん、これは文法的には誤っていることになります。

「好きくない」の持つニュアンス


stop! / austinevan

「好きくない」という表現は、「好きではない」という表現と比較して、幼く聞こえるという意見があります。

例えば、この記事では、

(「好きくない」という表現は)言葉の習得中の幼児が言うのであれば自然だが、
あどけない時期を“卒業した”年齢の者が使えば、あえて幼さをよそおっているのか、言葉に鈍感か、
それとも単に無知なのか、判断に迷う。

と述べています。

「私も、この意見には賛同であり、「好きくない」という言葉は、小さい子供、特に女の子が使いそうな言葉のように思えます。
なぜ、「好きくない」という表現は幼く聞こえるのでしょうか。
単に文法的に間違っているからなのでしょうか。

形容動詞の持つニュアンス

実は、先ほど紹介した記事の末尾には、このようなことも書いてあります。

日本語教育では、語尾が「〜い」「〜しい」で終わる修飾語を“イ形容詞”と呼んでいるようだ。
これに対し“ナ形容詞”は「きれいな+名詞」「静かな+名詞」のように活用語尾が「〜な」となる。
物事の状態や性質、人間の感覚、好みなどを表す。

つまり、形容動詞には、物事の状態や性質、人間の感覚や好みなどを表すニュアンスがあるということである。

更に、同じブログの別の記事では、形容詞「大きい」と形容動詞「大きな」を取り上げて、その違いを次のように述べています。

こうしてみると、「大きい」は、客観的で正確に説明する場合などに用いられるのに対して「大きな」は、
主観的で心理的な思いを表す傾向がある。「大きな顔をする」はその一例だ。これを「大きい顔をする」とするのでは
こなれた日本語と言えまい。個人の語感にもよるが、「大きい顔」だと物理的に?面積が大きい顔の意になり、
「大きな顔」だと俗な表現で言えば「デカイ顔をする」という意味になる。

以上から、形容詞と形容動詞のニュアンスの違いをまとめると、

  • 形容詞:客観的で正確に説明する場合などに用いられる傾向
  • 形容動詞:主観的で心理的な思いを表す傾向

となります。

そもそも、形容動詞は、「形容詞な機能を持つ動詞」というところから命名されています。つまり、

  • 外観=活用(語形変化のこと)は動詞と同じ
  • 中身=意味は形容詞と同じ

ということです。
形容動詞の活用は、

  • 未然形:―だろ
  • 連用形:―だっ、で、に
  • 終止形:―だ
  • 連体形:―な
  • 仮定形:―なら
  • 命令形:×

となり、これは、以下に示す助動詞「だ」の活用と類似しています。

  • 未然形:―だろ
  • 連用形:―だっ、で
  • 終止形:―だ
  • 連体形:(―な)※形容動詞を認める立場では、この用法は限定的
  • 仮定形:―なら
  • 命令形:×

このことから、形容動詞は動詞と同様の活用をし、そのことから、
形容動詞は形容詞と比較して、語感に動詞的ニュアンスが含まれているのではないかと考えることができます。
また、この動詞的ニュアンスを含むことで、形容動詞は形容詞と比較して、
より主観的な思いを表す傾向があるのではないかと仮定できるのではないかと私は考えるに至りました。

「好きくない」のニュアンスの由来

さて、ここで改めて、「好きくない」という表現に戻ってみます。
「好きくない」は、伝統的な日本語では「好きではない」と表現するべきところで使用されます。
もし、「好きくない」という表現が単に日本語の誤用ではなく、「好きではない」と明確に使い分けられている、
そこまでいかなくても、話者の伝えたいニュアンスが「好きではない」では伝わらず、
「好きくない」で伝わると感じているとすると、それはどこから来るのでしょうか。

私は、「好きくない」という表現は、「好きではない」という表現と比べて、
話者の主観性が弱くなっているのではないかと考えます。
「好きくない」という表現は、話者が対象を積極的に嫌っているわけではなく、
対象に対する客観的な評価として「好き」と相反する状態であることを宣言しているように感じ取れ、
そのため、話者の主体性を放棄したように聞こえるのではないでしょうか。
また、話者が主体性を放棄することで、その評価に対する責任を負わなくする効果もあると考えます。
すなわち、話者が対象を「好きくない」と感じるのは、話者のせいではなく、対象にその原因があり、責任がある、ということです。
このあたりに、「好きくない」という表現の幼さを感じ取るのではないでしょうか。

主体性の放棄が生み出す効果

さて、ここまでは、「好きくない」の持つニュアンスを挙げ、形容詞と形容動詞を比較することで、
「好きではない」とのニュアンスの違いを明らかにしてきました。
結果として、「好きくない」という表現は、話者の主体性が放棄された他責的な表現であると主張しました。
ここでは、そのようなネガティブな効果だけでなく、ポジティブな効果も述べたいと思います。

主体性が放棄されるということは、対象の持つ属性に対して反射的に評価している、
悪い言い方をすれば、頭を使わないで評価していると考えることができます。
これは逆に考えると、対象に対して直感的に評価をしていると言うことはできないでしょうか。

「好きくない」の持つニュアンスを、単に幼いと言い切るのではなく、直感的表現であると考えることで、
この表現の有用性を示すことができるのではないかと考えるわけです。
そうすれば、"いい大人"が「好きくない」と発言しても、それを否定的にとらえることはないのではないでしょうか。
いわば、「好きくない」に市民権を与えることになるのです。


▲「となりのトトロ」の作中では、
「オジャマタクシ」や
「トウモコロシ」が登場します。

言葉を一種のコミュニケーションツールとして考えると、言葉の誤用はコミュニケーションの障害にしかなりません。
もちろん、言葉の誤用という現象をメタ的にとらえることで、そこに意味を含ませることはできます。
「オタマジャクシ」と言うべきところを「オジャマタクシ」と発言することは、話者の幼さを示すには十分な効果があります。
けれど、それが行き過ぎると、意思疎通に障害が出てくることは容易に想像ができます。
しかし、もし、それが誤用ではなく、明確な話者の意思をもって表現されているのであれば、
それを単に誤用と片付けるべきではないのではないでしょうか。
「好きくない」には、「好きではない」では表せない明確な違いがあると主張し、ここでこの記事を締めくくりたい。