ネパール語で"st-"の綴りが俗に"ist-"と発音されることに関する仮説

ネパールに行ったとき、"st-"と発音されるはずの単語を"ist-"と発音されているのを複数人から何回か聞きました。
具体的には、ネパールの首都カトマンズでも、西のポカラでも、"street"をそのままデーヴァナーガリーで書いた"स्ट्रीट"/sṭrīṭ/が、まるで"इस्ट्रीट"/isṭrīṭ/という単語を読んでいるかのように聞こえるのです。
恐らく、ネパール語固有の単語には"st-"で始まる単語が少なくて、逆に"ist-"から始まる単語が多いから、このような現象が起こるのかなと思っていましたが、ちょっとネパール語の辞書を引いて調べてみました。


今回利用した辞書は、三枝礼子: ネパール語辞典, 大学書林, 1997.です。

ネパール語の文字の整理

その前に、今回の調査に関係するデーヴァナーガリーの文字について整理します。
というのも、デーヴァナーガリーには日本語の/s/に聞こえる文字が3つ、/t/に聞こえる文字が4つあるからです。

まずは/s/から。デーヴァナーガリーには、次の3つの文字があり、発音はこのようになっています。

ただし、ネパール語では、最初の2つ(शとष)は同じ[ʃ]の音(英語の"sh"の音)で発音されます。

次は/t/の音です。デーヴァナーガリーでは多くの子音で有声音・無声音と有気音・無気音が対立しています。
/t/も例外ではなく、/t/と/th/があり、しかも、舌先の位置が微妙に異なる/ṭ/と/ṭh/があるのです。

  • ट:デーヴァナーガリーの発音記号では/ṭ/、IPAでは[ʈ]。
    • 舌先が日本語の「た」よりずっと奥(喉寄り)で、日本語では「ら」と言っているように聞こえます。
    • 英語をデーヴァナーガリーで書くときは"t"の部分でこの文字が使われます。
  • ठ:デーヴァナーガリーの発音記号では/ṭh/、IPAでは[ʈʰ]。
    • टの有気音。
  • त:デーヴァナーガリーの発音記号では/t/、IPAでは[t̪]。
    • 日本語の「た」やハングルの「ㄷ」、英語のtとほぼ同じ発音。
    • 日本語をデーヴァナーガリーで書くときは、一般的にはこの文字を使います。何故か英語では使いません。
  • थ:デーヴァナーガリーの発音記号では/th/、IPAでは[t̪ʰ]。
    • तの有気音。ハングルの「ㅌ」とほぼ同じ発音です。
    • 英語の"th"(俗に、舌先が上下の歯の隙間から出る[θ]の音)とは発音が異なりますが、英語をデーヴァナーガリーで書くときは"th"の部分でこの文字が使われます。

さて、これでやっと、と言いたいところですが、その前にもう一つ、合字について。

デーヴァナーガリーでは、子音が2つ以上続いた場合、文字の形がちょっと変わります。
多くの場合は、最初の子音の文字がちょっとかけるだけなのですが、組み合わせによっては形を大きく変える場合があります。

この記事の最初に書いた"स्ट्रीट"にも、"स्ट्र"という合字があります。
この合字には、"स"/s/と"ट"/ṭ/と"र"/r/が合わさっているのです。特に"र"の文字は、合字の際には大きく形が変わるので注意が必要です。

"इ"は/i/を子音なしで用いる場合の文字、"ी"は/i/の長音/ī/が子音を伴っている時の文字です。
これでようやく準備が整いました。

ネパール語の辞書における調査

まずは、"st-"から始まる単語があるかどうかを確認します。
結果、三枝の辞書では以下のようになりました。

  • श्ट/śṭ-/, श्ठ/śṭh-/, श्त/śt-/, श्थ/śth-/から始まる単語: それぞれ0単語
  • ष्ट/ṣṭ-/, ष्ठ/ṣṭh-/, ष्त/ṣt-/, ष्थ/ṣth-/から始まる単語: それぞれ0単語
  • स्ट/sṭ-/から始まる単語: 18単語(18単語すべてが英語由来の外来語)
    • うちस्ट्र/sṭr-/から始まる単語: 1単語
  • स्ठ/sṭh-/から始まる単語: 0単語
  • स्त/st-/から始まる単語: 20単語
    • うちस्त्र/str-/から始まる単語: 7単語(7単語すべてが外国語由来ではない固有語)
  • स्थ/sth-/から始まる単語: 27単語

続いて、"ist-"から始まる単語は、これだけありました。

  • इश्ट/iśṭ-/, इश्ठ/iśṭh-/, इश्त/iśt-/, इश्थ/iśth-/から始まる単語: それぞれ0単語
  • इष्ट/iṣṭ-/から始まる単語: 2単語
  • इष्ठ/iṣṭh-/, इष्त/iṣt-/, इष्थ/iṣth-/から始まる単語: それぞれ0単語
  • इस्ट/isṭ-/, इस्ठ/isṭh-/, इस्थ/isth-/から始まる単語: それぞれ0単語
  • इस्त/ist-/から始まる単語: 3単語
    • うちइस्त्र/istr-/から始まる単語: 1単語

表にまとめるとこのようになります。

"s"系・"is"系\"t"系 ट/ṭ/ ठ/ṭh/ त/t/ थ/th/
श/ś/
0
0
0
0
ष/ṣ/
0
0
0
0
स/s/
18
0
20
27
इश/iś/
0
0
0
0
इष/iṣ/
2
0
0
0
इस/is/
0
0
3
0

このようにしてみると、

  • 音のつながりの組み合わせには偏りがある。
    • ない音の組み合わせは、全くない。
  • स्ट/sṭ-/の音の組み合わせは、英語由来の単語しかない。
  • "ist-"で始まる単語はそこまで多くはない、というか、わずかしかない。

この結果から、当初の仮説「ネパール語固有の単語には"st-"で始まる単語が少なくて、逆に"ist-"から始まる単語が多い」は破綻したことになります。特に、"str-"/"istr-"で始まる単語はすべて固有の単語であり、

  • स्त्र/str-/から始まる単語: 7単語
  • इस्त्र/istr-/から始まる単語: 1単語

となっている。

しかし、この中身は、

  • स्त्र/str-/から始まる単語の意味:
    • 女性、主婦、妻
    • 女性らしさ
    • 女性の財産、持参金
    • 女性としての義務、女性がなすべき行い、月経、貞操
    • 同衾、性交
    • 女性の性徴、女性器
    • 同衾、性交
  • इस्त्र/istr-/から始まる単語の意味:
    • アイロン

となり、実はस्त्र/str-/から始まる単語の意味には大分偏りがあるのだ。実際のところ、この始まり方をする単語は、女性を意味するस्त्री/strī/しかなく、他の単語はすべてこの派生単語でしかないのだ。

すると、先の仮説が無に帰した代わりに、別の仮説が浮かび上がることになる。すなわち、
ネパール語固有の"str-"で始まる単語は、女性及び性を想起させるものが多く、日常会話で敬遠されがちであるため、語頭に"i"をつけて回避する
という仮説だ。