hの話(その4:hの役割が変わった時)

前回:hの話(その3:hとc)


Akropoli / DanielKrieg.de

ギリシャ語のΗ(イータ)は、はじめ/h/音の役割を担っていたが、次第に/h/の音が使用されなくなったため、代わりに/e/の音を担うことになった、というのは、以前紹介したとおりである。しかし、この現象はギリシャ国内で一夜にして起こったわけではない。今回は、Ηが音を変えていった過程に着目したい。

Ηの音価が変わるまで

そもそも、古代ギリシャには「ひとつの国家」という概念が希薄であった。都市ひとつひとつが「ポリス」と呼ばれ、各々が国家レベルの自治権を有していた。それゆえ人の交流も比較的閉鎖的になり、ポリスごとに独特な方言があった。それは単語やアクセントのレベルから、大きなものでは文字の担う音がまるで違うということもあった。そのような環境下では、徐々に/h/の音が失われていったのが古代ギリシャ語の歴史である。

Ηが/h/の音を失うきっかけとなったのは、ギリシャの文化的中心であったイオニアにおいて/h/の音が消滅したことであった。同時に、イオニアでは母音が多様化し、その中のひとつの現象として、Ε(イプシロン)だけでは担えない、別の/e/音*1の発生があった。この音に音価を失ったΗの文字が当てはめられ、この時、Ηの音価が/h/から/e/に切り替わったのだ(勿論、これだって一夜にしてそうなったわけではなく、徐々に徐々にそのように変化していったのである)。

文化的中心であったイオニアギリシャ語は、次第にギリシャ全土に広がっていった。こうして、ギリシャ全土において、Ηの役割は/e/の音の表現に切り替わったのである。この現象を、ギリシャ語の「滑らか」という単語から「プシロシス(ψίλωσις , psilosis)」と呼ぶ。

/h/の行く先

Greek TextureGreek Texture / chefranden

さて、共通語において/h/の音が消滅しても、/h/の音が生き残っている地方もあった。この地域においてもΗは/e/の音を担うことになったため、/h/の音を扱う別の文字が必要になった。そこで生まれたのが、Ηの左半分や右半分だけを書いた文字であり(特に左半分だけを書いた文字"Ͱ"は「ヘータ」と呼ばれた)、これがのちの気息記号" ̔"及び"̓"に進化した。気息記号は、現代ギリシャ語が体系化された時点*2で綴字法上一度復活したが、現代ギリシャ語においても/h/の音は存在しないため綴りだけの存在となり、結局1983年に正式に廃止されることとなった。

なお、2つある気息記号の内、有気記号" ̔"が/h/の音を表し、無気記号"̓"は/h/がないことを意味する*3。無気記号は、かつて/h/音があったが今はないことを示しており、特に、語頭のΡ(ロー)には必ず無気記号が付けられた。これは、元来のギリシャ語にはΡから始まる単語はなく、元々はΗΡ(/hr/)と綴られたものからΗが/h/音とともに脱落したためである。

次回:hの話(その5:日本語史におけるh)

*1:IPA表記では[ɛː]の音。一方、Εが従来担っていた音は[eː]

*2:特に日本では認知度が低いのですが、現代のギリシャという国は、古代ギリシャとは歴史的なつながりは殆どない。1453年の東ローマ帝国滅亡から1832年オスマン帝国からのギリシャ独立まで、ギリシャの歴史は断絶していたのである。

*3:ちなみに、有気記号、無気記号は、それぞれ英語で"rough breathing"、"smooth breathing"と呼ばれる