忌避の表記

名前というのは大切であり、洋の東西を問わず相手の名前を直接呼ぶことは不敬とみなされる文化がある。
例えば日本では、天皇皇后(や上皇上皇后)を「陛下」、皇太子皇太子妃をはじめとするそのほかの皇族を「殿下」と呼ぶが、これはそれぞれ相手を直接呼ぶことを避け、間に入って取り次ぎをする人がいる場所である陛下(階段の下)や殿下(殿舎の下)で呼称を代えたことが起源と言われている。歴史ドラマの中では主君を「殿」や「御屋形様」、その妻を「北の方」「奥方」と呼ぶのも、相手の名前を直接呼ばず、その人がいる場所で読んだことが由来である*1。他人の妻の敬称である「奥さん」も同じ由来だ。
海外でも、例えばイギリスでは国王は"His Majesty"、女王は"Her Majesty"と呼ばれる。これは直訳すると「彼/彼女の威厳」であり、名前で呼ばずにその人の「威厳」を呼ぶことで代えている。
この文化は特に中国大陸で顕著であり、清朝時代までの中国人の名前は「姓」「名」の他に「字(あざな)」があるのが一般的であったが、この中の「名」は他人が軽々しく読んではいけない文化であった。例えば三国志で有名な諸葛孔明は、「諸葛」が姓で「孔明」は字である。諸葛孔明諸葛亮とも呼ばれるが、この「亮」が名である。当時は姓と字を組み合わせて呼ぶのが一般的であり、名は本人や目上の人が呼ぶときにのみ使うこととされた。つまり一般には「諸葛孔明」と呼ばれ、「諸葛亮」と呼ぶのは本人か目上の人だけであったとされる*2。軽々しく読んではいけないこの「名」は、正しくは「諱」と呼び、日本では「忌み名」から「いみな」と訓読される。


諸葛孔明は何かとマンガ・アニメで題材にされますよね。最近も「パリピ孔明」という作品がありました。


王様の名前を避ける

一般的な人の諱でさえ呼ぶのを憚られたわけだから、皇帝の諱ならなおさらである。古代中国では長い間、皇帝の諱に使われている漢字は使ってはならないとする習わしがあった。これを避諱(ひき)と呼ぶ。例えば、漢の皇帝、劉邦の忌み名である「邦」という漢字は、漢王朝の間は使ってはいけない漢字であった。そのため、「邦」という字を避けるために「国」の字が代わりに使われたり、あるいは「 」の空白にしてしまうという方法で対応していた。また、字体を変えて対応するという方法もあった。清王朝康熙帝の諱「玄燁」や、乾隆帝の諱「弘暦」に使われている漢字を避けるために、例えば「玄」や「弘」の最終画を書かない字(これを「欠画文字」あるいは「欠筆文字」と呼ぶ)で代えるという方法もあった。康熙帝と言えば著名な漢字辞典である「康煕字典」の編纂を命じたことでも有名であるが、この字典では「玄」およびそれを含む漢字において、「玄」は欠画の字体で掲載されている。


観音菩薩、いわゆる「観音様」は、「観世音菩薩」がもともとの名前です。
しかし、唐の皇帝であった太宗の諱が「世民」であったために「世」の漢字が避けられ、結果として「観音」でも通じるようになりました。


欠画文字

日本でも、中国のように天皇の諱を避ける文化がありました。明治の初めには、当時の今上天皇である明治天皇や、その先代、先々代の諱を避けるために、3つの漢字については終画を欠いた欠画文字を使うことを定めた法律が制定されたことがあります*3


明治元年行政官布告第821の抜粋。『法令全書』から引用。


ただし、この法律は数年後にすぐに廃止されました。背景には、外来の風習を排除するという明治政府の方針(欠画の風習はもともと中国の風習)や、戸籍制度を制定するにあたり、避諱は都合が悪い(天皇が変わるたびに避諱を理由とした改名が発生してしまうし、そもそも戸籍制度を制定するにあたり今まで自由に行われていた個人の改名を制限したい)というものもあった*4

神の名を避ける

古代のヘブライ語では、古代のギリシャ語と同じように、アルファベット一文字ずつに数字が割り当てられており、アルファベットを並べることで数字を表記していました。基本的にはアルファベット順に1、2、…と9まで割り当て、そのあとは10、20、30、…と90まで割り当て、という感じです。11は10と1で、12は10と2で示すのですが、このときに15と16の表記が神名である“YHWH”(神聖四文字)の略記である“YH”および“YW”とそれぞれ同じになってしまいます(10が“Y”に、5が“H”に、そして6が“W”にあたる)。そこで、それを避けるために、15は10+5ではなく9+6と、16は10+6ではなく9+7と分解して、“YH”や“YW”とならないようにしていました*5
現在、イスラエル等で使用されている現代ヘブライ語では、1, 2, 3のような算用数字(アラビア数字)を使うので、上記の問題に遭遇することはないと思います。

*1:日本では一般的に建物の南側を正面としたので、建物の奥にいる人「奥方」が「北の方」となった。

*2:ただし諸葛亮の場合は、その君主である劉備は敬意をこめて「諸葛孔明」と呼んでいたと言われている。

*3:本文を国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。 法令全書 慶応3年 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*4:林大樹, et al. 近世公家社会における避諱と改名. 近世の天皇・朝廷研究: 大会成果報告集, 2013, 5: 119-192.

*5:河野ら, 言語学大辞典 別巻 世界文字辞典, 三省堂, 2001, 891