hの話(その6:英語の"th"(前編))


Vg 22, Häggesled kyrka, Västergötland /
Bochum1805

前回:hの話(その5:日本語史におけるh)

英語の"th"の綴りは、初学者にとっては謎のひとつだと思います。
綴りも謎だし、発音もなじみがない。多くの日本人にとって初めて学ぶ外国語は英語なので、
これが原因で英語嫌い、ひいては語学嫌いになった人もいるでしょう。
今回は、この"th"がテーマです。

"th"の発音

「"th"の発音は、上の歯と下の歯の間から舌先を出して発音する」と習った方もいるでしょう、というか、中学生相手だとこれくらいしか説明のしようがないと思います。
発音学上のお名前は「歯摩擦音」、このうち、"the"や"this"などの有声音を「有声歯摩擦音[ð]」、"three"や"think"などの無声音を「無声歯摩擦音[θ]」と呼びます。

日本人にとって一番身近な外国語である英語がこの音を持っているので、ついつい日本語に"th"の音がないことが世界的に珍しいことなんだと思いがちですが、
世界的に見れば逆で、"th"の音を持っている言語の方が、言語の集合の中では少数派なのです。
メジャーな言語では、英語の他、スペイン語アラビア語くらいしかありません。
(同じスペイン語でも、中南米で話されているスペイン語では、無声歯摩擦音は[s]の音に変化しています)
英語がグローバル化していく中で、英語を母語としない人が増えているため、将来的にはもしかしたら歯摩擦音は絶滅するかもしれないとさえ言われています。

英語を母語としない人は、"th"を[t]や[d]などで発音することもあります。
ですから、"th"の発音ができないことを悩む必要はありません。
(日本の英語教育は、綴字法こそアメリカ英語になっていますが、発音は伝統的なイギリス英語にならう習慣がありますので、学校の授業では厳しく指導されるかもしれません。教育とは規範を教えることですが、バランスが難しいところです。)

"th"の歴史(古英語)


英語は元々イギリスの言葉ですが、かつてこの地域は、文化的にキリスト教文化圏ではなく、使用されていた言葉や文字も、ギリシャやローマのそれらとは異なるものでした。
この時代の文字はルーン文字と呼ばれ、今は日常的には使われていない文字です。
やがてイギリスにキリスト教の宣教師がやってきて、布教活動を始めるのと前後して、イギリス土着の言葉がラテン文字で書かれるようになりました。
この時、ラテン文字に対応する文字がない音がいくつかありました。これらの音について、田中美輝夫『英語アルファベット発達史―文字と音価―』(1970)には次のような記述があります。

ラテン・アルファベットがゲルマン語派に属するアングロ・サクソン語に適用された時、そこにある程度の不備が起こることはまぬかれなかった。
OE(引用者註:古英語)において、[w]、[ð]と[θ]、および[æ]の音に対して、特別の表記法が工夫された。
初めOE[w]に対してはラテン文字uが、そして[ð]と[θ]に対してはラテンの二重字thが用いられた。
しかし8世紀の後期には、後者の二つの音に対してdもしばしば用いられた。dは、アイルランドの慣用では、ときどき有声摩擦音の記号であったからである。しかし、キリスト教の教会および文化の堅固な確立とともに、ルーン文字がth、d、uに代わるようになった。
すなわち、[ð]と[θ]はþ('thorn')によって、[w]はƿ('wen')によって表されるようになった。
さらにもう一つの新しい記号ð('Insular' dに横棒を引いたもの。crossed dとも呼ばれる)が加えられ、かくして9世紀まではðとþが[ð]と[θ]の二つの音に対して区別なく用いられた。
(p113、改行は引用者任意)

[ð]と[θ]の音を表す際に、最初期は"th"の綴りが使われたが、当時は二重字(2文字で1つの音を表す)が珍しかったのでしょう、また、元々使っていたルーン文字に二重字がなかったからかもしれません。ラテン文字が十分受け入れられたタイミングで、ルーン文字が一部復活したのでした。
ルーン文字の"þ"が、[ð]と[θ]の両方の音を担っていたこともあり、ラテン文字に組み込まれた後も、"þ"は[ð]と[θ]の両方の音を担当しました。これがそのまま、"th"が[ð]と[θ]の両方の音を持っている理由になっています。

実は、古英語において、"þ"を含む摩擦音は、音素としての有声―無声の対立がなかったと考えられています。
それゆえ、[ð]と[θ]を区別する必要がなく、両方を"þ"で表記していたのでしょう。
このあたりについては、堀田のブログが参考になります。
#2230. 英語の摩擦音の有声・無声と文字の問題

長くなってしまったので、続きは次回とします。

次回:hの話(その7:英語の"th"(後編))