hの話(その8:英語の"gh"とドイツ語の"ch")


モーツァルト
アイネクライネナハトムジーク」は、
ドイツ語で"Eine kleine Nachtmusik"と綴り、
このうち"nacht"とは英語の"night"に相当し
「夜」のことである。

前回:hの話(その7:英語の"th"(後編))

ギリシャ語やラテン語において、時代が進むに連れて/h/という音素が消滅したために、
表音文字としての機能を失った"h"という文字は、
別のアルファベットに添えられることで、異なる音素をもつことを意味するという
新しい機能を担うことになったのは、過去の記事で紹介した通りです。

参考:hの話(その3:hとc)

この時は、「"h"はあくまでサブの立ち位置であり、"h"が添えられた文字がメイン」という関係でした。
現代イタリア語の"ch"や"gh"は、前舌母音の前で音価が変わってしまった"c"や"g"の代わりに生まれた綴りですし、
現代フランス語の"ch"(及びそれを輸入した英語の"ch")は、新しく発生した[tʃ]の音を表すために生まれた綴りでした。
(後にフランス語では、音価が[ʃ]に変化しました。)

これらの綴りが発生したのは、9世紀〜10世紀頃であると考えられていますが、
実はドイツ語ではそれより前の8世紀に、"ch"という綴りが発明されているのです。

今回は、ドイツ語の"ch"、及びその影響を受けた英語の"gh"について紹介します。

ロマンス語派は持たない音/x/

ヨーロッパの言語は、大きく3つのグループに分類されます。

今回注目しますドイツ語や英語の祖先であるゲルマン祖語には、/h/と似て非なる/x/という音価がありました。
日本語には/x/という音価は存在せず、[x]は[h]とまとめて/h/になっているので説明しづらいですが、
丁度冷たい手を温めるときの「はー」が[xa:]に近いです。
現代英語にはこの音価はありませんが、現代ドイツ語や現代オランダ語には存在し、また、ゲルマン語族ではありませんが、中国語(ピンインのhの音は[x]です)やロシア語("х")にも/x/の音価はあります(実はロシア語を含むスラブ語派も、多くの場合/x/の音を有しています)。

この/x/の音は口蓋音の一種で、特に、無声軟口蓋摩擦音[x]は、軟口蓋破裂音である[k]や[g]と同じ、軟口蓋音の仲間です。
しかし[k]や[g]の音はロマンス語派も持っていますが、/x/の音はロマンス語派は持っていませんでした。

一方、言葉を書き表す文字の観点では、圧倒的にロマンス語派が優勢となっていました。
これは、キリスト教南ヨーロッパを中心に広まっていく過程で、ラテン文字も広まっていったためであり、
従来ルーン文字を使用していたゲルマン語派も、次第にラテン文字を使用するようになります。
(英語におけるラテン文字化の経緯は前々回、前回に紹介したとおりです)

さてここで、英語の/θ/と同じ問題が、ドイツ語の/x/で発生します。
/x/を表す文字がラテン文字にないのです。
ここでドイツ語では、"ch"という二重字の綴りが発明されました。
/x/は音としては/h/の音に近く、また/x/は/k/や/g/と同じ口蓋音です。
そこで、ラテン語で/k/の音価を持つ"c"と、/h/の音価を持つ"h"を合わせて"ch"という綴りが生まれました。

英語の"gh"


同様のことが、英語でも発生しました。
前回、前々回に引き続き、田中(1970)を引用します。

("night"や"daughter"などの)ghという綴り字はME(引用者註:中英語)‘strong’ hを表わすために作られた二重字である。
ドイツ語ではこの場合chが書かれる。
古代音hが語頭において弱音化して‘weak’ hの記号となるに及んで、‘strong’ hを明示する必要が起こり、その結果hの前にcあるいはgを置くことが考案された。
(中略)
ドイツ式のchにせよ、イギリス式のghにせよ、要するにそれ(引用者註:c及びg)はhの補助記号であった。
MEにおいてchが時に用いられた例があるが、英語ではフランス式のch=[tʃ]との混同を避けるためにそれは当然棄てられた。このghは近世初期に全く音韻的に消滅し黙字化してしまった(例外:laugh, enough, etc.)。
(田中, p135)

英語は古英語の時点で、/x/は/h/に合流し、[x], [ç]は[h]とともに/h/にまとめられるようになってきました。
そのため、/x/の音も/h/と同様"h"で綴られていました。
しかし音価としては同化することはなく、
語頭の"h"は[h]で、非語頭の"h"は[x]や[ç]で発音されていたようです。
さて、ノルマン・コンクエストにより、フランス語が英語に流入すると、"h"の音[h]がフランス語同様に無音化し始めます。
しかし、当時の英語では、"h"の文字が[h]の他に、[x]や[ç]の音も担っていました。
この時に、「この"h"は[x]や[ç]の音なのだから、無音化せずにしっかり発音しろよ」という意味で、
語中の"h"が"gh"で綴られるようになったのです。
この"gh"の"h"は、イタリア語やフランス語の"ch"とは異なり、"h"がメインであり、"g"がサブ的立ち位置でした。
二重字の"h"は何でもかんでも「異音を示す符号的役割」というわけではないのです。

しかし、"gh"については、語中と語末でその後の展開が変わりました*1
語末の"gh"("laugh"や"enough")では、"g"が役割を果たし、無音化は防ぐことに成功しました。
しかし、/h/の音を維持することはできず、現代英語では/f/の音に変化しています。
その一方、語中の"gh"("night"や"daughter")については、結局は無音化を阻止することはできず、
黙示の"gh"となり現代に至るわけです。

ちなみに、肝心の"h"は、語中では無音化し、綴りからも消えましたが、
語頭の"h"は殆ど無音化することなく、/h/の音を維持し続けました。

結果を見ると、語中の"h"については"gh"と変化したものもしなかったものも、もれなく無音化しているわけで、
綴りからも消えてしまった語中の"h"よりはましとは言え、語中の"gh"については、"g"の心中をお察ししたくなる結果と言えます。

次回:hの話(その9:"sh"のh)

*1:全くの余談ですが、語頭の"gh"は"ghost"とその派生語を除き、現代英語には存在しませんが、語中や語末の"gh"とは由来は異なります。古英語では"gast"という綴りであったが、15世紀のイギリスの印刷業者キャクストンの印刷物で"ghost"と綴られ、16世紀末にはこの綴りが定着します(寺澤芳雄『英語語源辞典』研究社, 1999.)。