ひらがな・カタカナ裏話(その2:「へ」が「部」から出来たって本当?)

ひらがな・カタカナ裏話の第2弾、漸くです。

前回:ひらがな・カタカナ裏話(その1:「み」のはらいはどこから来たの?)

今回のテーマは「へ」です。
前回の「み」よりも、成り立ちには納得が行かないでしょう。
どうやって11画の「部」が、たった1画の「へ」になったのか?
そもそも本当に「部」から「へ」が生まれたのか?

江戸時代には謎だった「へ」の成り立ち


実は、「へ」が「部」から生まれたとする説は、大正時代に定説になったもので、それまでは諸説ありました。
森岡隆『図説 かなの成り立ち事典』では、

  • 邊(=辺)、反、閉(貝原益軒『和漢名数』1689) *1
  • 反や邊の省略か、あるいは皿の草書か*2新井白石『同文通考』1705)*3

と紹介されています。
明治初期(1878年)に榊原芳野が著し、文部省が出版した『文芸類纂』では、
過去の様々な研究を紹介した上で、とりあえず反の字の一部からできたとする、と結論付けています*4 *5
当時の国内有数の学者をして、「へ」の成り立ちは解明できなかったのです。

正倉院文書で有力視された「部」説

このような中で、大正期に大矢透によって発表されたのが『音図及手習詩歌考』です。
この中で、ひらがな「へ」は「部」から生まれたと主張されています。
この主張の根拠とされたのが、正倉院所蔵の奈良時代の書物でした。

(従来主張されている「へ」の由来として)
邊の省なり、皿の略草なりなどいい、反閉扁などいう説もあれど
いずれとも帰着するところを示さずして止めり。
こは古文書、古経巻などの、世に知られざる間に在りては、
止むを得ざることというべし。
是も正倉院古文書に、
 大宝二年御野国戸籍 宮売児マ屋売 水取マ、古売
  椋人妻物マ多都売
 天平二年近江国志何郡計張 三上部阿閉 男三上マ国足
  女三上マ阿多麻志
 天平三年同上 男三上ア国足 女三上ア阿多麻志
など見えて、三上部を三上マ、三上アと記せるは、
マは、アの草、アは部傍の草なること明なるにて、
後代渡邊渡部などを渡アと記すことあるは、奈良朝以来のことなるを徴すべし。
(pp85-86、仮名遣い及び漢字は現代のものに改めた。
 なお、「マ」「ア」には、「へ」の由来となる字の代用。)

つまり、「へ」は「部」のつくり「阝」の崩れた「ア」や「マ」が、
さらに崩れたものである、ということだ。
また、江戸時代の国学者がこれを解明できなかったのは、
江戸時代には皇室管理の正倉院の古文書を見ることはできなかったからと補足している。
大矢は幸運にも、大正期に行われた正倉院所蔵の古文書修繕の折に、この古文書を調査することができたため、
「へ」が「部」に由来することを解き明かすことができたのだ。

ちなみに、この「部」を「へ」の由来と考える説は、江戸後期には既にあったようで、
先に紹介した『文芸類纂』でも、諸説の中の一つとして、仮字本末の引用があった*6

又假字本末下巻延喜二年所書阿波國板田郡戸籍矢田部之部字或用へ字
(p32表)

次回:ひらがな・カタカナ裏話(その3:字源の漢字の裏を取る(前編))

*1:国文学研究資料館のデータベースで閲覧できます:http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XMI2-11804

*2:なお、文中で、「藤原定家は『人』という字が由来と言っているが、音からしてあり得ない」と言っている。本書では『皿』説に紙面を割いているが、最後には「どれも決め手に欠けるため諸説入り乱れているのだろう」としている。

*3:国文学研究資料館のデータベースで閲覧できます:http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0272-32213

*4:私は原著ではなく、その影印が収録されている、杉本つとむ杉本つとむ著作選集5 日本文字史の研究』(1998)で確認しました。『文芸類纂』は明治初期の書物なのでひらがなの字体が古く、読むのに苦労します。この部分が解読できたら別の記事にしたい。

*5:国立国会図書館デジタルコレクションにありました:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991272

*6:仮字本末の該当部分が、国立国語研究所のデータベースで閲覧できます。http://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/kanamotosue/003/PDF/knms-003.pdfの49ページ。