hの話(その9:"sh"のh)


▲シュークリームの「シュー」とは
フランス語で「キャベツ」を意味する
"chou"が由来です。
ちなみに「クリーム」は英語由来であり、
「シュークリーム」という言葉は
日本で生まれた和製外来語です。

前回:hの話(その8:英語の"gh"とドイツ語の"ch")

前々回にて、英語の"th"の綴りは、他の二重字"ch"や"sh"の影響を受けて復活したと記しましたが、
しかし現代フランス語には"ch"の綴りはあっても"sh"の綴りはないという疑問があり、
"sh"の綴りについて調べるこことしました。

先に断っておきますと、
ノルマン・コンクエストの時代において、当時のフランス語に"sh"の綴りがあったかどうかは、
今回の記事作成までにはわかりませんでした。
この件については、追って調査をしたいと思います。

英語における[ʃ]の発生

英語史において、[ʃ]の音は古英語の時代(5世紀〜12世紀)に発生します。
荒木一雄 et al.『古英語の初歩』(英潮社, 1993.)では以下のように解説されています。

scという綴り字は、古英語の初期から900年頃までに生じた音変化
(すなわち、[sk]>[skj]>[sxj]>[sj]>[ʃ])の結果出てきた[ʃ]と、
この変化をうけなかった[sk]のいずれかを表すため、与えられた語のscは
どちらの音であるのか、その区別が大切である。
(荒木 et al.(1993), p24)

また、大名力『英語の文字・綴り・発音のしくみ』(研究社, 2014.)でも、具体例を挙げて紹介されています。

古英語にはscという[ʃ]を表す二重字も存在しました。
これは元々[sk]という発音であったものが音変化により[ʃ]となったためにscで[ʃ]を表すようになったものです。
現代英語のdishは当時はdiscと綴っていました。
dishはdeskやdiscと語源が一緒ですが、deskやdiscは他の言語からの借入により英語に入ってきたもので、そのため[sk]→[ʃ]という音変化を受けていません。
(大名, p189)

元々「投げられるもの」という意味であった印欧祖語の"*dikskos"から派生した、ラテン語で「投擲用円盤」を意味する"discus"が、
古英語の時代に流入したものが後の"dish"に、
"discus"からイタリア語を経て「机」の意味を持った中世ラテン語(4世紀〜14世紀)の"desca"が中英語の時代に流入したのが後の"desk"に、
19世紀にレコード盤蓄音機を発明したベルリナーが「円盤」の意味を持つ"disk"から派生して使用したのが"disc"になったそうです*1


これにより、古英語では"sc"という綴りに2つの発音が共存することになりました。
しかし、"sc"という綴りが[sk]と発音するのか[ʃ]と発音するかについては明確な規則があり、混乱はなかったと考えられています。

"sh"の誕生

"sh"の綴りが誕生するのは、お馴染みノルマン・コンクエスト以降の英語である中英語の時代です。
この時代の英語で、/ʃ/の音は"sch", "sh", "ssch", "ssh"で表記され、scは/sk/か/s/の音しか担わなくなりました*2
何故"sh"の綴りが発生したかは明確ではありませんが、やはり"sc"を場面によって読み替えるのなら、
それぞれ別の綴りにしようという、至極当たり前な原因かもしれません。
あるいは、フランス語の流入により、今まで"sc"の読みを決めていた規則の例外が多く発生するようになり、
[sk]か[ʃ]かを識別する表記方法が求められたのかもしれません。
はたまた、"th"の綴りの復活時に私が推測したように、"sc"という綴りよりも"sh"という綴りの方がかっこよかっただけかも知れません。

しかし、[ʃ]の綴りについては中英語の時代の間、様々な綴られ方をされたようで、
"sh"の綴りに収束するには中英語末期の15世紀後半を待たなければなりませんでした*3

*1:寺澤芳雄『英語語源辞典』研究社, 1999.

*2:大名(2014), p190. 荒木 et al.: 中英語の初歩,1997, p27

*3:ジョルジュ・ブルシェ et al.: 英語の正書法 その歴史と現状, 荒竹出版, 1999, p85.

hの話(その8:英語の"gh"とドイツ語の"ch")


モーツァルト
アイネクライネナハトムジーク」は、
ドイツ語で"Eine kleine Nachtmusik"と綴り、
このうち"nacht"とは英語の"night"に相当し
「夜」のことである。

前回:hの話(その7:英語の"th"(後編))

ギリシャ語やラテン語において、時代が進むに連れて/h/という音素が消滅したために、
表音文字としての機能を失った"h"という文字は、
別のアルファベットに添えられることで、異なる音素をもつことを意味するという
新しい機能を担うことになったのは、過去の記事で紹介した通りです。

参考:hの話(その3:hとc)

この時は、「"h"はあくまでサブの立ち位置であり、"h"が添えられた文字がメイン」という関係でした。
現代イタリア語の"ch"や"gh"は、前舌母音の前で音価が変わってしまった"c"や"g"の代わりに生まれた綴りですし、
現代フランス語の"ch"(及びそれを輸入した英語の"ch")は、新しく発生した[tʃ]の音を表すために生まれた綴りでした。
(後にフランス語では、音価が[ʃ]に変化しました。)

これらの綴りが発生したのは、9世紀〜10世紀頃であると考えられていますが、
実はドイツ語ではそれより前の8世紀に、"ch"という綴りが発明されているのです。

今回は、ドイツ語の"ch"、及びその影響を受けた英語の"gh"について紹介します。

ロマンス語派は持たない音/x/

ヨーロッパの言語は、大きく3つのグループに分類されます。

今回注目しますドイツ語や英語の祖先であるゲルマン祖語には、/h/と似て非なる/x/という音価がありました。
日本語には/x/という音価は存在せず、[x]は[h]とまとめて/h/になっているので説明しづらいですが、
丁度冷たい手を温めるときの「はー」が[xa:]に近いです。
現代英語にはこの音価はありませんが、現代ドイツ語や現代オランダ語には存在し、また、ゲルマン語族ではありませんが、中国語(ピンインのhの音は[x]です)やロシア語("х")にも/x/の音価はあります(実はロシア語を含むスラブ語派も、多くの場合/x/の音を有しています)。

この/x/の音は口蓋音の一種で、特に、無声軟口蓋摩擦音[x]は、軟口蓋破裂音である[k]や[g]と同じ、軟口蓋音の仲間です。
しかし[k]や[g]の音はロマンス語派も持っていますが、/x/の音はロマンス語派は持っていませんでした。

一方、言葉を書き表す文字の観点では、圧倒的にロマンス語派が優勢となっていました。
これは、キリスト教南ヨーロッパを中心に広まっていく過程で、ラテン文字も広まっていったためであり、
従来ルーン文字を使用していたゲルマン語派も、次第にラテン文字を使用するようになります。
(英語におけるラテン文字化の経緯は前々回、前回に紹介したとおりです)

さてここで、英語の/θ/と同じ問題が、ドイツ語の/x/で発生します。
/x/を表す文字がラテン文字にないのです。
ここでドイツ語では、"ch"という二重字の綴りが発明されました。
/x/は音としては/h/の音に近く、また/x/は/k/や/g/と同じ口蓋音です。
そこで、ラテン語で/k/の音価を持つ"c"と、/h/の音価を持つ"h"を合わせて"ch"という綴りが生まれました。

英語の"gh"


同様のことが、英語でも発生しました。
前回、前々回に引き続き、田中(1970)を引用します。

("night"や"daughter"などの)ghという綴り字はME(引用者註:中英語)‘strong’ hを表わすために作られた二重字である。
ドイツ語ではこの場合chが書かれる。
古代音hが語頭において弱音化して‘weak’ hの記号となるに及んで、‘strong’ hを明示する必要が起こり、その結果hの前にcあるいはgを置くことが考案された。
(中略)
ドイツ式のchにせよ、イギリス式のghにせよ、要するにそれ(引用者註:c及びg)はhの補助記号であった。
MEにおいてchが時に用いられた例があるが、英語ではフランス式のch=[tʃ]との混同を避けるためにそれは当然棄てられた。このghは近世初期に全く音韻的に消滅し黙字化してしまった(例外:laugh, enough, etc.)。
(田中, p135)

英語は古英語の時点で、/x/は/h/に合流し、[x], [ç]は[h]とともに/h/にまとめられるようになってきました。
そのため、/x/の音も/h/と同様"h"で綴られていました。
しかし音価としては同化することはなく、
語頭の"h"は[h]で、非語頭の"h"は[x]や[ç]で発音されていたようです。
さて、ノルマン・コンクエストにより、フランス語が英語に流入すると、"h"の音[h]がフランス語同様に無音化し始めます。
しかし、当時の英語では、"h"の文字が[h]の他に、[x]や[ç]の音も担っていました。
この時に、「この"h"は[x]や[ç]の音なのだから、無音化せずにしっかり発音しろよ」という意味で、
語中の"h"が"gh"で綴られるようになったのです。
この"gh"の"h"は、イタリア語やフランス語の"ch"とは異なり、"h"がメインであり、"g"がサブ的立ち位置でした。
二重字の"h"は何でもかんでも「異音を示す符号的役割」というわけではないのです。

しかし、"gh"については、語中と語末でその後の展開が変わりました*1
語末の"gh"("laugh"や"enough")では、"g"が役割を果たし、無音化は防ぐことに成功しました。
しかし、/h/の音を維持することはできず、現代英語では/f/の音に変化しています。
その一方、語中の"gh"("night"や"daughter")については、結局は無音化を阻止することはできず、
黙示の"gh"となり現代に至るわけです。

ちなみに、肝心の"h"は、語中では無音化し、綴りからも消えましたが、
語頭の"h"は殆ど無音化することなく、/h/の音を維持し続けました。

結果を見ると、語中の"h"については"gh"と変化したものもしなかったものも、もれなく無音化しているわけで、
綴りからも消えてしまった語中の"h"よりはましとは言え、語中の"gh"については、"g"の心中をお察ししたくなる結果と言えます。

次回:hの話(その9:"sh"のh)

*1:全くの余談ですが、語頭の"gh"は"ghost"とその派生語を除き、現代英語には存在しませんが、語中や語末の"gh"とは由来は異なります。古英語では"gast"という綴りであったが、15世紀のイギリスの印刷業者キャクストンの印刷物で"ghost"と綴られ、16世紀末にはこの綴りが定着します(寺澤芳雄『英語語源辞典』研究社, 1999.)。

hの話(その7:英語の"th"(後編))

前回からの続きです。

前回:hの話(その6:英語の"th"(前編))

"th"の歴史(中英語)


中英語から、再び"th"の綴りが復権します。
前回と同じ、田中(1970)を引用します。

(中英語(ME)のアルファベット)のうち、ȝ('yogh')とþ('thorn')はそれぞれyとthに置きかえられて姿を消しつつあった。
OEのæ、ð、þはMEにおいて徐々に消えていった。æはea、a、あるいはeによって代わられ、ðに対してはþが代用され、そしてƿはu、uu、そして最後には大陸から来たwによって代わられた。
(中略)
そのほか(引用者註:当時のフランス語の慣習的綴り字であり、中英語にも取り入れられた)ch、sh(この場合、hは単なる区分音符的価値しかもたない)の綴り字にならって英語独特の二重字ghが作られた。
この慣用は、þとðに代わるthの使用の拡張を助け、またOE hw-に代わるwh-を一般化した。
(pp114-115、改行は引用者任意)

中英語の時代は、ノルマン・コンクエストが起こり、イギリスにフランスの文化が大量に持ち込まれます。
これは綴字法も例外ではなく、フランス語風の綴りが導入されるようになります。
このとき、[ð]及び[θ]の音をどのように綴るかが再度問題になります。
フランス語にはこれらの音はありませんから、適切な文字はありません。
そして(これは私の想像ですが)土着の文字であるルーン文字から輸入した"þ"の文字が、
洗練されてなくて、田舎っぽくて、言ってしまえばダサい文字に見えたのかもしれません。
また一方で、当時のフランス語には"ch"や"sh"の二重字が使用されており、
これが対照的に洗練されていて、新鮮で、つまりはナウい書き方に見えたのでしょう。
その上、"þ"は、当時の字体の"y"と見た目が似ているという欠点もありました。
結果として、"þ"は急速にすたれ、代わりに"th"の綴りが再度使用されるようになったのです。


Ye Olde London / Luigi Rosa


なお、先ほど"þ"と字形が似ていると紹介した"y"ですが、"þ"が滅んだ後も、まるで"þ"の生まれ変わりかのような振る舞いを演じることになりました。
"y"の上や右肩に小さく"e"を書くことで"the"と、"t"を乗せて"that"と読ませる用法が生まれ、これは欽定訳聖書をはじめとする公式文書でも見られることがありました。
流石に近年の公式文書では使用されませんが、今でも店先の看板などでは古風な演出のために、"the"と書くべきところを"ye"と書いているものもあるそうです*1

文字が民族に与える影響

余談ですが、
その言語にしかない文字というのは、上記の例のようにその言葉を母語とする民族にとってコンプレックスになることがあります。
日本ではひらがなが、朝鮮ではハングルが、長い間「女文字」と称され、公で使われるまでに長い年月が必要でした。
これは、当時東アジアで最大の文明国であった中国の文字が漢字であったからであり、
漢字以外の文字は文明化されていない、ダサい文字に見えたのでしょう。


København H / Björn Söderqvist


ところが、逆に、その民族にとってアイデンティティになることもあるのですから、わからないものです。
例えば、20世紀末のデンマークの件があります*2
詳細は割愛しますが、ドイツとデンマークが両国の国境地帯を共同開発するにあたり、その地域の名称についてデンマーク側でひと悶着あり、
結果的に、両国で使われる名称の中に、ドイツ語では使われず、デンマーク語で使われる"ø"の文字を入れることで、
デンマークの国及び民族としてのアイデンティティを示したということがありました。
この地域は歴史上、ドイツにたびたび侵攻されており、また、言語的にドイツ語が優勢である
(つまり、両国民が会話するときはドイツ語が使われることが多い)ため、
何としても「ここはデンマークでありドイツではない」ということを国内外に示したかったわけです。

このような効果を政治的に利用した例が、東欧や中近東をはじめ世界のいたるところで見られます。
つまり、ロシアやソ連とのつながりを示すために、敢えて今まで使っていた文字を捨ててロシア語と同じ文字(キリル文字)を使ったり*3
逆に、ロシアやソ連とのつながりを断ち切るために、敢えてラテン文字やその他独自の文字を使ったり*4という例などです。
同じようなことは、アラビア文字*5デーヴァナーガリー(インド文字)*6でもありますし、朝鮮語ベトナム語もその一例でしょう*7
日本国内でも、方言を恥ずかしいと思うシーンがある一方で、
地方のアイデンティティを示すために、敢えて方言で表現することがありますが、
それの国際版と言ったところでしょうか。

次回:hの話(その8:英語の"gh"とドイツ語の"ch")

*1:橋本功「英語史入門」慶應義塾大学出版会, pp45-46, 2005.

*2:村井誠人「11 国境地帯に生きる人々―デンマークドイツ国境地域事情―」 in 池田雅之・矢野安剛『ヨーロッパ世界のことばと文化』早稲田大学国際言語文化研究所, 2006.

*3:例えばモンゴル語

*4:例えばアゼルバイジャン語は、アラビア文字ラテン文字キリル文字ラテン文字と、何回も正書法が切り替わっている

*5:例えばトルコ語

*6:例えばウルドゥー語は、言語としては殆どヒンディー語と同じだが、表示文字がアラビア文字を祖とするウルドゥー文字である

*7:韓国/北朝鮮ベトナム各国とも、中国の影響を排するため、漢字の使用を禁止(韓国は制限)し、独自の表記を採用した

hの話(その6:英語の"th"(前編))


Vg 22, Häggesled kyrka, Västergötland /
Bochum1805

前回:hの話(その5:日本語史におけるh)

英語の"th"の綴りは、初学者にとっては謎のひとつだと思います。
綴りも謎だし、発音もなじみがない。多くの日本人にとって初めて学ぶ外国語は英語なので、
これが原因で英語嫌い、ひいては語学嫌いになった人もいるでしょう。
今回は、この"th"がテーマです。

"th"の発音

「"th"の発音は、上の歯と下の歯の間から舌先を出して発音する」と習った方もいるでしょう、というか、中学生相手だとこれくらいしか説明のしようがないと思います。
発音学上のお名前は「歯摩擦音」、このうち、"the"や"this"などの有声音を「有声歯摩擦音[ð]」、"three"や"think"などの無声音を「無声歯摩擦音[θ]」と呼びます。

日本人にとって一番身近な外国語である英語がこの音を持っているので、ついつい日本語に"th"の音がないことが世界的に珍しいことなんだと思いがちですが、
世界的に見れば逆で、"th"の音を持っている言語の方が、言語の集合の中では少数派なのです。
メジャーな言語では、英語の他、スペイン語アラビア語くらいしかありません。
(同じスペイン語でも、中南米で話されているスペイン語では、無声歯摩擦音は[s]の音に変化しています)
英語がグローバル化していく中で、英語を母語としない人が増えているため、将来的にはもしかしたら歯摩擦音は絶滅するかもしれないとさえ言われています。

英語を母語としない人は、"th"を[t]や[d]などで発音することもあります。
ですから、"th"の発音ができないことを悩む必要はありません。
(日本の英語教育は、綴字法こそアメリカ英語になっていますが、発音は伝統的なイギリス英語にならう習慣がありますので、学校の授業では厳しく指導されるかもしれません。教育とは規範を教えることですが、バランスが難しいところです。)

"th"の歴史(古英語)


英語は元々イギリスの言葉ですが、かつてこの地域は、文化的にキリスト教文化圏ではなく、使用されていた言葉や文字も、ギリシャやローマのそれらとは異なるものでした。
この時代の文字はルーン文字と呼ばれ、今は日常的には使われていない文字です。
やがてイギリスにキリスト教の宣教師がやってきて、布教活動を始めるのと前後して、イギリス土着の言葉がラテン文字で書かれるようになりました。
この時、ラテン文字に対応する文字がない音がいくつかありました。これらの音について、田中美輝夫『英語アルファベット発達史―文字と音価―』(1970)には次のような記述があります。

ラテン・アルファベットがゲルマン語派に属するアングロ・サクソン語に適用された時、そこにある程度の不備が起こることはまぬかれなかった。
OE(引用者註:古英語)において、[w]、[ð]と[θ]、および[æ]の音に対して、特別の表記法が工夫された。
初めOE[w]に対してはラテン文字uが、そして[ð]と[θ]に対してはラテンの二重字thが用いられた。
しかし8世紀の後期には、後者の二つの音に対してdもしばしば用いられた。dは、アイルランドの慣用では、ときどき有声摩擦音の記号であったからである。しかし、キリスト教の教会および文化の堅固な確立とともに、ルーン文字がth、d、uに代わるようになった。
すなわち、[ð]と[θ]はþ('thorn')によって、[w]はƿ('wen')によって表されるようになった。
さらにもう一つの新しい記号ð('Insular' dに横棒を引いたもの。crossed dとも呼ばれる)が加えられ、かくして9世紀まではðとþが[ð]と[θ]の二つの音に対して区別なく用いられた。
(p113、改行は引用者任意)

[ð]と[θ]の音を表す際に、最初期は"th"の綴りが使われたが、当時は二重字(2文字で1つの音を表す)が珍しかったのでしょう、また、元々使っていたルーン文字に二重字がなかったからかもしれません。ラテン文字が十分受け入れられたタイミングで、ルーン文字が一部復活したのでした。
ルーン文字の"þ"が、[ð]と[θ]の両方の音を担っていたこともあり、ラテン文字に組み込まれた後も、"þ"は[ð]と[θ]の両方の音を担当しました。これがそのまま、"th"が[ð]と[θ]の両方の音を持っている理由になっています。

実は、古英語において、"þ"を含む摩擦音は、音素としての有声―無声の対立がなかったと考えられています。
それゆえ、[ð]と[θ]を区別する必要がなく、両方を"þ"で表記していたのでしょう。
このあたりについては、堀田のブログが参考になります。
#2230. 英語の摩擦音の有声・無声と文字の問題

長くなってしまったので、続きは次回とします。

次回:hの話(その7:英語の"th"(後編))

hの話(その5:日本語史におけるh)

前回:hの話(その4:hの役割が変わった時)


現代日本語には極当たり前に存在する[h]の音であるが、
日本語の歴史においては、新しく日本語に加わった音である。
しかし一方で、「ハ行」に相当する文字自体は、日本語が文字で書かれ始めた頃から存在している。
では、このハ行の文字たちは、かつてどのような発音をされていたのか。
高山 et al.の「音韻史(シリーズ日本語史1)」(岩波書店, 2016)に沿って、ハ行の歴史を見てみよう。

江戸時代以前のハ行


▲日本語の歴史を踏まえると、
ぱるる」という愛称は
奈良時代的」と言えなくもない。

奈良時代、まだひらがなやカタカナが発明される前の日本語は、
漢字の音で日本語を記していた(万葉仮名)。
この中で、ハ行の音として使われている漢字は、実は[h](暁音)の音を持つ漢字ではなく、[p](幇音)や[b](並音)、[f](非音)の音を持つ漢字であった。
この時代に[h]の音を持つ漢字がなかったわけではない。
つまり、ハ行の音を表すのに、仕方なくこれらの漢字を使ったのではなく、
[h]の音を持つ漢字があるにも関わらず、積極的に[p]などの音を持つ漢字を使ったということになる。
このことから、当時のハ行の音は、[p]音に近い音であったと考えられる。
なお、当時[h]の音を持っていた漢字は、日本でどのように読まれたかというと、[k]の音で読まれていたと推測されている。
現代日本語と現代中国語を比べてみても、上海の「海」のように、日本語で「カイ」と読む「海」は中国語だと「ハイ」と読まれる。
このことからも、当時の日本語に[h]音がなかったことがうかがえる。

これが平安時代に入ると、次第に[ɸ](無声両唇摩擦音)の音に変化した。
更に10世紀中葉には、語中のハ行の音が、[ɸ]から[β̞](両唇接近音)に変化し、ワ行と同じ音になった(ハ行転呼)。一方で、語頭のハ行はそのまま[ɸ]の音を保った。
学校の古文の授業で、「はひふへほ」を「わいうえお」と読むことがあるが、まさにこの影響であるし、
勿論、現代日本語で助詞の「は」「へ」を「わ」「え」と同じ音で読むのも、これが影響している。
安土桃山時代にヨーロッパの宣教師が日本語を書き表す際にも、ハ行は"h"ではなく"f"を使っていたことからも、そのことが伺える(例えば『日葡辞典』など)。

江戸時代以降のハ行

江戸時代に入ると、ハ行の音の内、「ハヘホ」の音が[ɸ]から[h]に、「ヒ」の音が[ç]に、それぞれ変化したと考えられている。
例えば、『蜆縮凉鼓集』(1695)では、旧来の五十音図の音の並びは当時の音にあっていないとし、新たな図表の作成を試みているが、
この新表において、ハ行の位置はア行の次に移動しており、行の名前も、ア行を「喉音」と呼ぶのに対しハ行を「変喉」と称している*1 *2
また、室町時代の歌い方を記した『音曲玉淵集』(1727)では、「ハ・ヒ・ヘ・ホ」の文字は「フハ・フヒ・フヘ・フホ」と発音するように、と書いている*3
わざわざこのように指導するということは、この頃からハ行は、[ɸ]の音から、現代日本語のような[h]の音になったと考えるのが妥当であろう。

次回:hの話(その6:英語の"th")

*1:国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2546007の上巻12ページ(コマ番号は15)

*2:ちなみにこの新表は、ア行・ヤ行・ワ行のカタカナをすべて分けていたり、オとヲが現在の位置と逆であったりと、他にも興味深い点があるが、ここでは割愛する。

*3:国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/858459/25の44〜45ページ(コマ番号は32)

ひらがな・カタカナ裏話(その2:「へ」が「部」から出来たって本当?)

ひらがな・カタカナ裏話の第2弾、漸くです。

前回:ひらがな・カタカナ裏話(その1:「み」のはらいはどこから来たの?)

今回のテーマは「へ」です。
前回の「み」よりも、成り立ちには納得が行かないでしょう。
どうやって11画の「部」が、たった1画の「へ」になったのか?
そもそも本当に「部」から「へ」が生まれたのか?

江戸時代には謎だった「へ」の成り立ち


実は、「へ」が「部」から生まれたとする説は、大正時代に定説になったもので、それまでは諸説ありました。
森岡隆『図説 かなの成り立ち事典』では、

  • 邊(=辺)、反、閉(貝原益軒『和漢名数』1689) *1
  • 反や邊の省略か、あるいは皿の草書か*2新井白石『同文通考』1705)*3

と紹介されています。
明治初期(1878年)に榊原芳野が著し、文部省が出版した『文芸類纂』では、
過去の様々な研究を紹介した上で、とりあえず反の字の一部からできたとする、と結論付けています*4 *5
当時の国内有数の学者をして、「へ」の成り立ちは解明できなかったのです。

正倉院文書で有力視された「部」説

このような中で、大正期に大矢透によって発表されたのが『音図及手習詩歌考』です。
この中で、ひらがな「へ」は「部」から生まれたと主張されています。
この主張の根拠とされたのが、正倉院所蔵の奈良時代の書物でした。

(従来主張されている「へ」の由来として)
邊の省なり、皿の略草なりなどいい、反閉扁などいう説もあれど
いずれとも帰着するところを示さずして止めり。
こは古文書、古経巻などの、世に知られざる間に在りては、
止むを得ざることというべし。
是も正倉院古文書に、
 大宝二年御野国戸籍 宮売児マ屋売 水取マ、古売
  椋人妻物マ多都売
 天平二年近江国志何郡計張 三上部阿閉 男三上マ国足
  女三上マ阿多麻志
 天平三年同上 男三上ア国足 女三上ア阿多麻志
など見えて、三上部を三上マ、三上アと記せるは、
マは、アの草、アは部傍の草なること明なるにて、
後代渡邊渡部などを渡アと記すことあるは、奈良朝以来のことなるを徴すべし。
(pp85-86、仮名遣い及び漢字は現代のものに改めた。
 なお、「マ」「ア」には、「へ」の由来となる字の代用。)

つまり、「へ」は「部」のつくり「阝」の崩れた「ア」や「マ」が、
さらに崩れたものである、ということだ。
また、江戸時代の国学者がこれを解明できなかったのは、
江戸時代には皇室管理の正倉院の古文書を見ることはできなかったからと補足している。
大矢は幸運にも、大正期に行われた正倉院所蔵の古文書修繕の折に、この古文書を調査することができたため、
「へ」が「部」に由来することを解き明かすことができたのだ。

ちなみに、この「部」を「へ」の由来と考える説は、江戸後期には既にあったようで、
先に紹介した『文芸類纂』でも、諸説の中の一つとして、仮字本末の引用があった*6

又假字本末下巻延喜二年所書阿波國板田郡戸籍矢田部之部字或用へ字
(p32表)

次回:ひらがな・カタカナ裏話(その3:字源の漢字の裏を取る(前編))

*1:国文学研究資料館のデータベースで閲覧できます:http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XMI2-11804

*2:なお、文中で、「藤原定家は『人』という字が由来と言っているが、音からしてあり得ない」と言っている。本書では『皿』説に紙面を割いているが、最後には「どれも決め手に欠けるため諸説入り乱れているのだろう」としている。

*3:国文学研究資料館のデータベースで閲覧できます:http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0272-32213

*4:私は原著ではなく、その影印が収録されている、杉本つとむ杉本つとむ著作選集5 日本文字史の研究』(1998)で確認しました。『文芸類纂』は明治初期の書物なのでひらがなの字体が古く、読むのに苦労します。この部分が解読できたら別の記事にしたい。

*5:国立国会図書館デジタルコレクションにありました:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991272

*6:仮字本末の該当部分が、国立国語研究所のデータベースで閲覧できます。http://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/kanamotosue/003/PDF/knms-003.pdfの49ページ。

ハワイ語っぽいジェネレータ


monkeypod tree(hitach tree) / frontriver


こないだの記事で、子音の少ないハワイ語について触れました。

参考:なぜ日本人はLとRの発音を区別できないのか?(中学生の英語なぜなぜシリーズ その3)

ハワイ語には、子音は/h/,/k/,/l/,/m/,/n/,/p/,/w/,/'/*1の8つしかありません。
ハワイ語はそれゆえ、慣れていないと異なる単語でも似たような印象を持ったりします。

例えば、
「アラモアナ」と「モアナルア」
ってなんか語感が似ていません?

ハワイに行ったことがある方はわかるかもしれませんが、
前者はワイキキの大きなショッピングセンターの名前、
後者は「この〜木なんの木」の木がある公園の名前です。

そこで、
ハワイ語にある音をランダムに並べればハワイ語っぽい単語ができるのではないか?」
と思い、javascriptでサクッと作ってみました。

(2019.7.13.更新ここから)
…と、「はてなダイアリー」はjavascript書けないそうなので
(「はてなブログ」は書けるらしいが)、

本ブログがはてなブログに移行したので、記事内でjavascriptが書けるようになりました。
以下の「クリック」ボタンを押すと、その下にハワイ語っぽい単語が表示されます。

(2019.7.13.更新ここまで)

(2020.1.3.更新ここから)
1日1回、ハワイ語っぽい単語をツイートするTwitterアカウントを作成しました。
(アカウント自体はその前からあったのですが、ようやく機能実装できました)
よろしければフォローください。

twitter.com

(2020.1.3.更新ここまで)

外部サイトのリンクを貼っておきます。

Pseudo-Hawaiian Generator - JSFiddle

一応、こちらにもコードは置いておきますね。

Javascript

function OnButtonClick() {
    target = document.getElementById("output");
    var arrj =['ハ','ヒ','フ','ヘ','ホ',
               'カ','キ','ク','ケ','コ',
               'ラ','リ','ル','レ','ロ',
               'マ','ミ','ム','メ','モ',
               'ナ','ニ','ヌ','ネ','ノ',
               'パ','ピ','プ','ペ','ポ',
               'ワ','ウィ','ウェ','ウォ',
               'ア','イ','ウ','エ','オ'];
    var arre =['ha','hi','hu','he','ho',
               'ka','ki','ku','ke','ko',
               'la','li','lu','le','lo',
               'ma','mi','mu','me','mo',
               'na','ni','nu','ne','no',
               'pa','pi','pu','pe','po',
               'wa','wi','we','wo',
               'a','i','u','e','o'];
    var len = Math.floor( Math.random() * 3 ) + 3 ;
    var i;
    var strj = "";
    var stre = "";
    for(i=0;i<len;i=i+1){
        var j = Math.floor( Math.random() * arrj.length );
        strj = strj + arrj[j];
        stre = stre + arre[j];
    }
    target.innerHTML = strj + ' (' + stre + ')';
}

HTML

<body>
    <input type="button" value="クリック" onclick="OnButtonClick();"/><br />
    <br />
    <div id="output"></div>
</body>

*1:声門閉鎖音のことで、IPAでは[ʔ]。英語にはない子音なので、非ネイティブ話者は無音化して発音いる。日本語でも子音なしで表記、発音される。